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【note】感情的になるのはなぜか?-自分はOS、ノウハウはソフトウェアである。-

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「感情的にならない」ためのノウハウ

「感情的にならないための~」というコラムや記事、その他さまざまなノウハウが語られることはけっこうある。

 

感情的にならない本 (WIDE SHINSHO203) (ワイド新書) (新講社ワイド新書)
 

 

「感情的にならず、しっかりと合理的に考え、行動すること」は社会で生きていくうえで必ず必要なものだからだ。感情を押し殺すスキルや、言いたいことを我慢しその場を和ませる秘訣などなど、私たちは「自分を殺すようなノウハウを自分で求めていく存在」である。

 

 

関係ないが、承認欲求を否定したアドラー心理学の本『嫌われる勇気』は一度読むべき本だと思う。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

 

OSは「私」、ソフトウェアは「ノウハウ」

とはいうものの、別に私はそれが悪い、と言っているわけではない。私自身、それを至極当然のこととして今まで生きてきたし、そういった「自分を殺す」スキルに何度も社会的に生かされてきた立場だ。そのようなノウハウなしで、人が社会生活を営むことはできないだろう。(もちろん山にこもるとかだったらいくら当たり散らしてもかまわないけれど)


しかし、ある程度私のように「自分を殺す」ことに意識的になっている人はいるのではないだろうか?我慢したり、感情を抑えたりするための方法を「ソフトウェア」、だとすれば、私たちはそれを実践するオペレーティングシステム(OS)」である。

OSも、相互のヴァージョンの違いによって、相性が悪く、ひどいときには機能を果たさなかったり、誤作動を起こしてしまうことも往々にしてある。

 

それと同様、私たちがインストールして用いている、自分を殺すスキルというソフトをうまく機能させることができるかどうかは結局のところ、その人自身の生活環境や立場、性格に依拠してしまうのではないか。

 

メタ認知」の過剰

もちろんそれで我慢しきれず怒ってしまったり、当たり散らしてしまった場合は「逆に」対応しやすい。「自分でも我慢できない分水嶺」というものを認識できるからである。しかし、私のように意識的、かつ、性格も穏やかな人間(私も仮にそういうことにしておくが)は、もっと難しい問題をはらんでいると思うのだ。


メタ認知という方法を知っているだろうか?

 

これは、自分のことを客観的にみるための方法である。例えば、自分が憤っているときに「あ~、俺、今怒っているな~」って思うときは「メタ的に」自分を認知している。それがメタ認知である。


この手法は、みなさんも実践していることがあると思うが、メリットばかりではない、というのが私の思うところ。端的に述べると、「メタ的に」自分を認知し過ぎて、どこまでが自らの「本当」なのかが分からない、という現象である。これは相当まずいと思う。

「理性的」になりすぎることで、感情的になってしまうことと同じかそれ以上に悪い結果を生むことがある。外部的には「温厚」という評価を得ることができるとしても、自分の内的な思考や思想の中では、熱く不安定な思いが煮えたぎっているのだ。知らず知らずのうちに内面の自分が解けて蒸発してしまいかねない。

 

自分をないがしろにしない

この類で悩んでいる人は、いないだろうか?この悩みは社会的、一般的な悩みとはもはや同質のものではない。しかし、大切なことだ。


僕はこのために哲学を勉強している。哲学する、のではなく、哲学を勉強するのだ。私は「哲学する」ことをもって真理を知ることにも熱を注いでいるが、それよりも哲学思想において、また社会において信頼されているこの「理性」が人をどこまで守り、駆逐していくのかを知りたい。

 

そして、あわよくば、それを知ったことで自分の感情と理性の「すきま」をどのように埋めていくのかを誰かに伝えたい、と思う。

それはともかくとして、過剰に理性的にふるまってしまう人は、一度、自分が理性的になりすぎていないかを再考してみるのもいいかもしれない。隠されているだけで、自分の価値観がないがしろにされているかもしれないからだ。

 

この記事はnoteで投稿されている「投げ銭コラム」です。